8月9日、本校体育館で平和集会が行われました。

8月9日(日)本校体育館で平和集会が行われ、文化情報部による平和祈念の朗読が行われました。

 

?校長講話

?11:02   黙  祷

?11:05   生徒による本の朗読――秋月辰一郎著「死の同心円」より

 

生徒による本の朗読担当者  

○進 行  竹山 翔貴(3?7)

○朗 読  西嶋  守(2?2)

      峰 綜一郎(2?7)

    山田 優樹(2?1)

       <久家 周平(2?7)>

○機器操作 小川 貴洋(2?7)

  森本 慎哉(1?7)

            その他 文化情報部

プロローグ ?序章?

 

こんにちは。私は3年7組の竹山といいます。今年もまた、長崎の原爆に関する本の朗読を通して、皆さんと一緒に原爆について考えてみたいと思います。それではまず、この歌からお聞きください。

 

 

?歌? 

 

 

今日は、長崎に原爆が投下されて64年になります。64年前の8月9日は

真っ青な空が広がる暑い日だったといいます。11時2分。原子爆弾が炸裂した、まさにその時間を、私たちは先ほど、共有することができました。

今年は、これから、秋月 辰一郎(たついちろう)さんの「死の同心円」という本の、一部を紹介します。

 

秋月辰一郎さんは大正5年(1916年)に、長崎市万才町で生まれました。昭和17年(1942年)、現在の聖フランシスコ病院の前身である浦上第一病院医長として勤務し、爆心地から1.4Kmで被爆しながらも、医師として被爆者の治療に当たる一方、永年に渡り被爆者の証言の収集を行いました。

 

それでは、 西嶋君、峰君、山田君による朗読をお聞きください。               

 ? BGM ?

 

秋月 辰一郎 「死の同心円」より

 

八月九日、空には一片の雲もなく、朝早くからセミの声がやかましい。それはきょう一日の油照りの暑さを思わせた。七時半に第一回目の空襲警報が鳴った。「きょうははやばやと定期便が来たな。しかし、それにしてはB29が見えない」と、人々はのんきにかまえて、それぞれの職場に向かった。

 

午前八時半、私は外来診療をはじめた。病院の中はごったがえしている。 

三菱兵器製作所研究部の横田技師がくる。娘さんが入院しているのだ。

「広島はすごいそうですな」

彼は技師として、私は医師として、ともに日本の運命には悲観していた。横田さんは憮然としていった。

 

「あれは化学的エネルギーではないですな」

「というと、何です」

患者は待っているが、私はそこが知りたい。

「ニトログリセリンのような窒素化合物が分解したときのエネルギーをどれだけ集積しても、広島の爆弾にはならんです。あれは原子力です。原子爆弾にちがいない」

「へえ、とうとう原子力か」

私はわかったような、わからないような顔で返事をした。

ちょうどそのとき、ブウー、ブウーと長連続音のサイレンが鳴り出した。空襲警報である。

 

「ほら、おいでなすった、また定期便だ」

横田技師は急いで工場のほうへおりていった。午前十時半だった。

三十分余りで空襲警報は解除になった。

 

「Im Westen nichts Neues, (西部戦線異状なし)」

という文句を気軽に口ずさみながら、私は診察室にはいった。

 

まだ警戒警報中だが、空襲警報が解除されると、もう危険は去ったという開放感があった。

 

 

 診察室では、吉岡先生が一生懸命に人工気胸を施している。

 

「空襲警報のときは、気胸は少し休まれたらいいでしょう」 

 

 「でも、あんまりたくさん患者が待っていましたから」

 

「しばらく休んで下さい。私が代わります」

 

 「ではお願いします」

 

 吉岡先生は、二階の自室でちょっとの間休養するために出て行った。私は、気胸をはじめた。村井看護婦がそばで介添えをする。

 

 石川神父は病院の聖堂にいて、信者達の告白を聴いていた。聖母被昇天の八月十五日の大祝日を一週間後に控えて、告白はひきもきらない。

 

 岩永修道士は病院の庭の中にある木立の中にさらに防空壕を掘るため、農夫達と一緒に働いていた。

 

野口神学生と軽症患者の植木君は、水揚げモーターの修理を始めた。

 

そのほかの職員は朝食の支度に大わらわである。賄い室でつくった味噌汁をおおきなカンに入れ、重そうに廊下を運んでいく。

 

 「さあ、やっと朝めしだ。患者は腹をすかしているだろう」

 

 私たちもだいぶ空腹を感じていたが、とにかく外来患者の処置をすまさなければならない。

 

 私は気胸針をとって、処置台に横たわっている患者の側胸にプスリと刺した。

時に十一時余。

 そのときだった。頭上のはるか上空に、ブウーという爆音のような音を聞いた。

 

 「おや、空襲警報は解除されたのに……」

 

 ふとそう思ったとたん、そのブウーという奇妙な音響は強く大きく、病院の上に覆いかぶさるように響いた。

 

 「敵機! 伏せろ!」と大声を出して叫ぶと同時に、私は気胸針を患者から引き抜いた。ベッドのそばに伏せたとき、「ピカリ!」白色の閃光が輝いた。 

 

つぎの瞬間、ガアン、ガラガラー! 巨大な衝撃が私たちの身体に、頭上にそして病院に加えられた。

 

最初のブウーの奇妙音からガアン!という衝撃まで、一秒か二秒はあったろ

う。

 

私は自分が伏せたのか、倒れたのかよくわからなかった。身体の上にガラガラと物が崩れ落ちる。

 

「やられた! 病院がやられた!」

 

眼がくらんで耳が鳴る。十秒ほどして、よろよろと起き上がった。周囲を見まわす。

 

黄色い煙がたちこめ、白い粉が舞っている。あたりは午前十一時というのに、妙に暗い。

 

「ありがたい、たいした傷はないようだ。……患者たちはどうしたろう。」

 

私は心を持ち直した。少しずつ明るさが増すにつれて、状況がハッキリしてきた。

村井看護婦が起きあがる。白い破片を頭からかぶっているが、大きなけがはなさそうである。

 

「おい、しっかりしろ、さいわい傷はないぞ」

私は彼女の方に手をかけて揺すった。

 

つぎつぎに診察室の中にいた人が起きあがる。

ある人は白い粉をまぶした顔から鮮血がほとばしっている。それを手で押え、呻きながら戸口のほうへよろめいている。

「やられた。先生!助けて!」

 

よろめきながら入院患者が下りてくるではないか。階段と廊下には材木や壁土や崩れた天井が重なりあって、なかなか歩けない。

 

「二階や三階はどうした!」

いくら私が大声でいっても、かえってくるのは

「助けて!」「山口さんが下敷きだ!」などという叫び声だけである。

だれも、何が起こったかわからない。

 

めいめい頭の上に巨大な力が落とされた。それが何かわからない。

数トンもある爆弾か、あるいは爆弾を積んだ爆撃機の自爆か。

しかし、病院に直撃弾が当たった、にしては軽すぎる。

 

今度は、診察室から窓ごしに庭や病院の戸外(こがい)を眺めた。

 

窓ガラスも窓枠もなにもない。スッカラカンだ。

 

病院の庭には、褐色の煙がたちこめている。その中を傷の軽い患者が逃げまどう。

 

私は南西の方向に視線をうつして、愕然(がくぜん)とした。

 

空は真っ黒く、雲か煙に覆われている。

 

その黒色の下、地上には黄褐色の煙がただよっている。

 

それが薄れてゆく地上の光景に、私は凝然として立ちすくんだ。

 

? 群  読 ?

 

地上のすべての建物は、赤々と燃えている。

 

大きな建物も燃えている。

 

草ぶき屋根の小さな家も燃えている。

 

はるか谷つづきの、東洋一の浦上天主堂も燃えている。

 

工業学校の大きな木造二階建ても、住宅も、兵器工場も、みな燃えている。

 

電柱も薪のように炎に包まれている。

 

これらの光景は、燃えているというより、地上が火を吐き、のたうち、噴火しているようだった。

 

空は暗く、地上は赤く、その中間に黄色い煙がたちこめている。

 

黒と黄と赤の三段の不気味な色調(しきちょう)が、逃げまどう人間を圧する。

 

人間が虫けらにひとしく見えた。

 

「これはどうしたことだ! 浦上第一病院が爆撃されたのではない!」

 

私はやっとそれだけ呑みこめた。

 

火の海、煙の空……まさにこの世の終わりを告げるような光景であった。

 

エピローグ ?終章?

 

長崎では、夏になると「原爆、原爆」とやかましくなり、八月九日が終わると潮が引くように静かになる。ある被爆者は、「原水爆禁止というが、あれは金魚売りと同じだ」 と自嘲している。原爆は、長崎の人々にとっても、いまや夏の風物詩の一つになってしまったのである。 原爆という悲惨な事実は、真珠湾奇襲攻撃や日本兵の残虐行為と交換に、沈黙させられてから、風化がはじまっている。しかし、私は相変わらず原爆について語り、原爆について筆を走らせる。

「また原爆か」

 という人も少なくない。だが、じつはだれもほんとうに原爆について知らないのである。 (中略)

 

 せめて、少しでも私たちの手で、原爆を知り、その記録を残しておきたいと思って、私たちは「証言の会」をつくった。

       (中略)

 

 アメリカもソ連も、莫大な核兵器を貯蔵し、そのほかの核保有国は、いずれも誇らしげに実験をくりかえす。核兵器を積んだB29や潜水艦が、私たちの周囲を動き回っている。

 賢くて愚かな人間は、あの八月九日からぜんぜん変わっていない。悲しいことに、同じあやまちをくりかえそうとしているのである。あれから、とうに四半世紀が過ぎたというのに―。

 

 秋月先生がこの本を書かれてから、さらに37年が過ぎました。原爆の記憶は、ますます私たちから遠のいていきます。せめてこの日だけでも、私たちは、犠牲になった人々を思い出し、原子爆弾のむごたらしさを、そして声なき声の被爆者の無念さを感じ取るようにしたいものです。

 

 それでは最後に、次の歌をお聞きください。

? BGM ? 終わり

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