8月9日、長崎南山中学校・高等学校で平和集会が開かれました。
松本勝男校長の講話、11時2分の「黙とう」、千北龍太郎生徒会長のあいさつの後、生徒会メンバー17名が文化情報部製作の映像と音楽に合わせて、秋月辰一郎さんの『死の同心円』の朗読を行いました。秋月辰一郎さんは1916(大正5)年に、長崎市万才町で生まれました。1942(昭和17)年、現在の聖フランシスコ病院の前身である浦上第一病院医長として勤務し、爆心地から1400mの地点で被爆しながらも、医師として被爆者の治療に当たる一方、永年に渡り被爆者の証言の収集を行いました。その功績によって、1972年に吉川英治文化賞、1985年にローマ法王庁の聖シルベステル勲章などを受賞しています。秋月先生は『死の同心円』の中で次のように述べられています。
長崎では、夏になると「原爆、原爆」とやかましくなり、8月9日が終わると潮が引くように静かになる。ある被爆者は、「原水爆禁止というが、あれは金魚売りと同じだ」と自嘲している。原爆は、長崎の人々にとっても、いまや夏の風物詩の一つになってしまったのである。原爆という悲惨な事実は、真珠湾奇襲攻撃や日本兵の残虐行為と交換に、沈黙させられてから、風化がはじまっている。しかし、私は相変わらず原爆について語り、原爆について筆を走らせる。「また原爆か」という人も少なくない。だが、じつはだれもほんとうに原爆について知らないのである。せめて、少しでも私たちの手で、原爆を知り、その記録を残しておきたいと思って、私たちは「証言の会」をつくった。
アメリカもソ連も、莫大な核兵器を貯蔵し、そのほかの核保有国は、いずれも誇らしげに実験をくりかえす。核兵器を積んだB29や潜水艦が、私たちの周囲を動き回っている。賢くて愚かな人間は、あの8月9日からぜんぜん変わっていない。悲しいことに、同じあやまちをくりかえそうとしているのである。あれから、とうに四半世紀が過ぎたというのに?。
秋月先生がこの本を書かれてから、さらに41年が過ぎました。原爆の記憶は、ますます私たちから遠のいていきます。せめてこの日だけでも、私たちは、犠牲になった人々を思い出し、原子爆弾のむごたらしさを、そして声なき声の被爆者の無念さを感じ取るようにしたいものです。